Profile

名前 城王、 JoO(ジョーオー)。シロオーでもいいです。
P.S.たいそうなハンドルネーム を付けてしまい少々反省しています。
Name JoO('Jo' is Castle. 'O' is King in Japanese.)
年齢 1960年生まれ、64歳の出戻りモデラー Age 65 years old
家族 妻1人、子供3人、孫4人 Family 1 wife, 3 children, 4 grandchildren
住所 東京都 Address Tokyo

(2025年12月現在)


記 (Dec. 2000)

はじめに〜私のプラモデル遍歴

小学生〜中学生の頃、戦車・飛行機・戦艦のプラモデルを主に作っていました(刀や城模型も作ったこともありますけど)。高校に入ってからは、プラモデルに興味がなくなり、ほとんど作らなくなりました。大学生の時、同級生(入学時は先輩でした)の影響で、車やバイクを少し作りましたが、塗装なしの素組みだけでした。社会人になっても、他のものに興味が移り、数年前まではまったく作っていませんでした。
私は神社・仏閣・古建築を訪ねてみるのが好きで、また、考古学や古代史に興味があって、博物館や展示をよく見て回っていました。出戻ったきっかけは、そういった展示ジオラマを見ているうちに、自分でジオラマを作りたくなって出戻ったというわけです。1994年に田宮模型の1/20のRacing Pit TeamやTire Changing Pit Crewというフィギュア模型を改造して、 弥生時代のジオラマや卑弥呼・難升米 の人形を自己満足のために作りました。それが最初の出戻り作品です。模型を作っている間、妙に心の開放感というか、すがすがしさを感じ、ストレスが解消されているのをはっきり感じました。「自分には、模型作りが性に合っている。」と、その時自覚しました。城や古建築ものをよく作るようになったのはごく最近です。1999年夏に、子供の夏休み自由研究でダンボールで安土城を作るということになり、その参考ために童友社の1/360の安土城を買いました。それからしばらくほっといて、それを2000年春に作ったのが最初です。

以下は模型にまつわる私の思い出話です。


思い出 1. 友達

私が小・中学生の頃、その当時の男子の趣味といったらほとんどがプラモデルだったように思います。私もプラモデルばかり作っていました。(妻も作ったことがあるとういうことです。)こずかいやお年玉のほとんどをプラモデルに使っていたように思います。今のようにテレビゲームなどなく、私のまわりの友達のほとんどはプラモデルを作っていました。その中の一人は、作るというより集めるのが好きだったらしく、彼の完成されたプラモデルを見たという記憶はあまりなく、彼の部屋の押し入れはKITの箱でいっぱいでした。私の家は貧乏だったので、うらやましく思った記憶があります。あのプラモデルはどうなったのでしょう? 彼は自衛隊員となって、北海道・富良野へ行きました。もう20年も音信不通です。

追記:彼との思い出でちょっと思い出したことがあるので書いときます。それは、中学を卒業した春休み、彼と2人でサンハウスというロックバンドのコンサートに行きました。(サンハウスというバンドは、あのシーナ&ロケッツの鮎川誠がギタリストをつとめていたバンドで、ホワイトスネークとかやってました。なつかしい。)最前列の大スピーカーの前に座っていたので、コンサートが終わった時、耳が「キーン」となり一週間位その音が耳の中で鳴っていました。コンサートが終わって彼とどこに行ったかというと、それは行き着けの模型屋さんです。どうして模型屋さんに行ったかは思い出せません。ただそれだけの話なのですが、これも忘れられない思い出で、ここに書いておきたいと思います。(この模型屋さんは以下の思い出話に出てくる模型屋さんで、タミヤニュースにも紹介された模型屋さんです。)


思い出 2. サンダーバード2号

小三(小四かもしれない)の時、サンダーバード2号のプラモデルがどうしてもほしくて、母親にねだって、特別におこずかいをもらい、喜びいさんで模型屋さんに買いに行きました。ところが、その模型屋に行く途中、駄菓子屋でガムを買ってしまいました。なんだか久しぶりに大金を持てて、気持ちが大きくなったのでしょう。お金はサンダーバード2号を買う分しか持っていませんでした。当然足りなくなり、2号を買えなくなってしまいました。ガムを買う時、そうなることは自分でもはっきり認識していました。でも、どうしてもガムを食べたかったんです。誘惑に負けたということですね。そのまま模型屋さんに行きました。模型屋と駄菓子屋は、十数メートルの距離しか離れていませんでした。2号の箱を横目で見ながら、それより安かった4号を買いました。黄色の潜水艇です。本当は2号がほしかったのですが、「僕は4号がほしかったんだ。僕は4号がほしかったんだ。」と何度も何度も自分に言い聞かせました。「僕は悪いことをしているんではないか、うそをついているのではないか。」と心の片隅で思いました。「ガム買わなきゃよかったな、いや、でも食べたかったもんな。」と後悔したり正当化したり、複雑な気持ちでした。今でも、はっきりとその時の気持ちや情景が浮かびます。2号と4号の箱の配置まで覚えています。そういった複雑な思いを引きずりながら、家に帰りました。4号を作っていると母親に、「模型買えたね?」と聞かれ、「う、うん」と小声で返事をしました。母親には、2号と4号の区別はつきません。「気づかれなくてよかった。」と安心した一方、「僕はうそをついている。」と罪悪感を覚えました。あれから30年たち、模型屋で2号の箱を見るたびに思い出される出来事です。ちなみに、未だに2号を買っても作ってもいません。


思い出 3. 飛燕

小四か小五の時、模型屋のおじさんの勧めで、プラモデルのコンクールに飛行機を出品しました。日本軍初めての水冷エンジン搭載の戦闘機「飛燕」です。すべて筆塗りで、迷彩をし、ランナーを細くのばしてアンテナ(?)をはりました。佳作をとりました。賞をとれるとは思っていなかったので、嬉しかったです。模型屋のおじさん曰く、どうしてもっと上の賞がとれなかったかというと、隙間をパテで埋めていなかったからだとか。当時の私の技術ではパテを使いこなせませんでした。私は塗料を隙間に流し込んで埋めることしかしていませんでした。
おじさんに頼んで、飛燕をお店のショーウインドウに展示してもらいました。自分の作品が展示されるのは嬉しかったです。10年位はそのままあったと思います。高校に入ってからは、プラモデルを作らなくなりましたが、たまにお店の前を通って覗くと、展示されてありました。二十歳の時、引っ越してからは、その店の前を通ることもなくなりました。先日(2000年夏)里帰りした時に、久しぶりにその模型屋さんを訪ねました。記憶が薄れて、お店を見つけるのに少々時間がかかりました。「もうお店なくなったのかな」と思いながら探しました。やっと見つけて店に入るとおばさんが出て来ました。おばさんはあまり変わっていませんでした。なんだか嬉しくなりました。ショーウインドウを覗いて飛燕を探しましたが、ありませんでした。おばさんにそのことを聞くと、知らないとのこと。しばらくおばさんと懐かしい話をしました。おじさんとは会えませんでしたが、元気だそうです。お客は私一人でした。フジミ模型の法隆寺五重塔(1/150) を買って帰りました。


思い出 4. エアーブラシ

小五か小六の時、エアーブラシを買いました。その当時で7000円もしました。貧乏な私は、お年玉をかき集めて、まさに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買いました。私の周りでエアーブラシを持っているやつはいなかったように思います。塗料の濃度調整は難しかったです。濃いとクモの巣をはきだして、薄いと塗料がたれて、塗料とシンナーをかなり無駄にしました。また、いちいち塗料を入れるタンクをシンナーできれいに洗わなければならなくて、シンナーがすぐになくなりました。当時、子供がシンナーやセメントを買うには、親の承諾書が必要で、毎回親に一筆書いてもらい、印鑑を押してもっていかなければいけませんでした。(今はどうなんでしょうか?) また、ガスもすぐなくなり、2000円もするガスボンベなんかなかなか買えませんでした。当時の私にとって、エアーブラシはランニングコストが高すぎて、使いこなせませんでした。30年近くたった今、同じ位の値段(もっと安い?)でエアーブラシは売られています。私は今、エアーブラシを持っていません。あの時感じた苦労を思い出し、欲しいとは思うんですが、なかなか買えないのです。
追記:とうとうエアーブラシ買いました。GSIクレオスのプロコンボーイWAダブルアクション(0.3mmノズル)です。リニアコンプレッサー付きセットです。この子供時代のトラウマ(大げさですが)のせいで、なかなか買おうと思わなかったのですが、使っている方の話を聞いたり、いろいろ調べていくうちに、不安より使いたいという気持ちの方が勝ってきて、とうとう買ってしまいました。洗浄液や洗浄ビンを使うとエアブラシの手入れも思っていたより楽で、不安もなくなりました。 (Oct. 2002)


思い出 5. ああタイガー1型...

中学生の時、1/35 タイガー1型戦車を作りました。半田ごてで5ミリくらいの長さの細かい溝 (モールド)を装甲全体にほどこして、エアーブラシで迷彩塗装しました。私のお気に入りの作品でした。他の模型といっしょに、実家のガラスケースにいれて飾っていました。気に入らない作品はある時すべて処分したので、そのガラスケースの中の作品は、私の子供時代に作った模型の集大成(大げさだが)でした。里帰りするたびにながめていました。
10年くらい前(90年頃か)実家に帰った時、そのガラスケースがなくなっていました。「えっ?」と思い、母親にそのことを聞きました。母親が言うには、私の妹の子供たち(甥)がケースの中の模型を取り出して、まるでブリキのおもちゃを扱うごとく、押したり引いたりして遊んでいたそうです。「もう粉々に壊れているよ。」と、紙袋に入った、本当に粉々になった私のタイガーを持ってきました。しかも半分くらいしか部品が残っていませんでした。残りはごみとして捨てられたようです。「ああー、なんということだ。」私はそれを見た時愕然としました。模型がなくなって悲しいというより、いっぱい詰まった思い出までもがなくなったような気がしました。こうなるとはまったく予想していなく、写真も撮っていませんでした。今はただ、私の記憶の中でしかあのタイガーを見ることしかできません。悲しすぎる。
追記:タイガー1型 (後期生産型)を2001年6月復活しました。画像へは ここをクリック

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